2006年01月07日

理性と野性

僕の人生を端的に表すことばは間違いなく 理性 だ。

理性は野性の対極にある、と定義する。

野性は自分の中に湧き上がる衝動や、本能的な欲望全てを指すものと考える。

理性は、それを抑える、いや、コントロールする制御装置の様なものだ。

理性が無ければ人ではない。僕はそう強く信じているし、理性の無い人間など見たことが無い。と思う。

誰でも多かれ少なかれ理性を持ち、常識や規律に自らの野生を従わせているはずだ。

理性と野性の間には 葛藤がある。
理性と野性から産まれる葛藤の奥底には、間違いなく虚無感がある。

葛藤してこそ人生。
だが、それに何の意味があるのか。

人生はただただ空しい。
この命に何の意味があるのか。
その想いには何の意味があるのか。
本当はただただ虚しい。

17歳の秋、僕は世界が虚しいことを知った。
僕の人生も虚しい事が連なるものと自覚した。
それから10年以上が経ち、空しさに身を浸すだけの自分にもそろそろ飽きて足掻くことにした。

丸くなったなどと軽々しく言うが、大人になることは鈍くなることで、野性の騙し方や逸らし方が上手くなり、理性の機能不全を取り繕うことが上手くなることだ。
そして無事に社会の構成要素の一輪になる。
野性が野性味を失い、理性が真なる制御力を失ったとき、葛藤は自己満足に摩り替えられ、虚無感は日常に埋没した。

本当は人生は虚しいもので、人の営みは永遠に空虚である。
創り、壊す。そして産まれ、死ぬ。

だが、空しい想いを抱えても、今、この時間に進もうと足掻こうとする姿は、人であることの証にも思える。だから足掻くこともそれなりに意味がある。

恐ろしいのは、この世に何か実りがあると信じることだ。
そんなものはきっとこの世には無い。
有るとすれば、それはそれぞれの精神世界の中にだけだ。

我々は何れこの星から消え去る運命にある。
この星の方が先に寿命を迎えるかも知れない。
若しかしたら太陽が先なのかも知れない。
何れにせよ、全ては消えるだろう。そこに果実など残るはずが無い。

でも、僕が今日も生きるのは、人としての本能であり、野性だと信じる。
この生命のある時間、もがき足掻くことが、生命体の本能であるとすれば、その野性に従っている時間は僕と言う生命体にとって至福の刻である。虚しさの中で漂っていた頃に常に背負っていた罪悪感の様なものはそこには無い。今有るのは、己の無力への怒りくらいか。

気紛れな野性を、揺れ動く理性で支えながら、葛藤の中で、もがく。
それでいいとも想う。この諦めこそ虚無感の極致であり、僕の中にあるものだ。
僕独りがどうなろうと、明日も朝は来るし、風も止まない。
posted by Harvey at 22:49| ニューヨーク ☀| Comment(1) | TrackBack(1) | 言霊の在処 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
何故ここ地球に生まれたのでしょう。
あなたがここに生まれて、
生きて、
そしてブログを書いて、
生きることについて考えて、
そのことで生きていることに満足できないかもしれないけれど、
生きているだけで意味があると思います。
Posted by yoo at 2006年01月15日 22:58
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